(この作文は大学のサークルで出場した、NHKのロボットコンテストの体験記です。大学の4年時(1997年)にひとに頼まれて書いたものなのですが、一応機械工学科向けに書いてあったのと、当時椎名誠ばっかり読んでいたので妙にエセ昭和軽薄体っぽくて恥ずかしいので(要は文章が下手なので)、若干の加筆・修正をしてあります。)

 そして親子ロボはカルガモのように走り、
   堺のちびっ子の惜しみない拍手を貰った

 「えー、アイディア賞は、得点こそ高くなかったものの、2つのロボットを同時に・・・」審査員がそうコメントした瞬間、僕のじっとりと汗ばんだ右手は体の横でしっかりと握られ、小さなガッツポーズをつくっていた。そして、表彰式が終わり、審査委員長が大会を締めくくるまでの間、僕は新日本プロレスのアントニオ猪木のようにあごをぐっと突き出して、下唇をぐっとかみしめながら、3年間の戦いの日々をぐーっと振り返っていた。そして、これはあとからビデオを見て分かったことなのだけれども、表彰式で僕の後ろに並んでいたチームメイトの三上の表情が、あごをぐっと突き出して、下唇をぐーっとかみしめて、実にもう感動的なまでに僕と同じ顔をしていたのであった(そして多分、僕と同じように3年間の戦いの日々をぐーっと振り返っていた)。つまり、このぐーっと、ぐーっと型の表情というのは、結構本気で戦ってきたものの表情なわけで、今回のロボコンにおける勝利(一応アイディア賞でしかないが、我々にとっては間違いなく勝利)の裏には、本気でやってきたものにしか分からない苦労と感動があったのだということを、僕は声を大にして申し述べたいのである。

 遡ること3年。埼玉大学に入学したばかりの僕は、とりあえずサークルにも入らず、ただなんとなく家と学校を往復するだけの日々を過ごしていた。ある日、高校のバレーボール部(半年でやめたけど)での知り合いで、同じ学科に来ていたKから、埼玉大学でもロボコンの参加者を募集しているという話を聞いた。当時からテレビでロボコンを見たりして、アイディアを考えるのは好きだったりしたので、まあ行くだけ行ってみるか、と実に軽い気持ちで茨城の片田舎から出て来たばかりの18歳の青年は泥沼に足を踏み込んでいった。ずぶずぶ。
 で、行っては見たものの、本来主力となるべき3年生は前年に担当教官と喧嘩したとかしないとかで一人もおらず、経験も浅い1、2年生だけの若いチームの中で、結局ただ体重が一番軽いからという理由だけでパイロットに任命された僕は、先輩たちの激しい苦労もたいして知らぬままに、タイヤの軸のトラブルでまっすぐ前に進まなくなってしまったマシンにただへらへらとまたがって、スタート地点近傍を、まるでまったく車庫入れのセンスのない免許取りたてのおばさんのように、弧を描きながらひたすらに前後するだけの姿をテレビカメラの前にさらしてしまったのである。そして、大会の行われた大阪から帰る新幹線の窓から流れる景色を眺め、「うーん、新幹線がちゃんと走るというのは実はものすごいことなのだ。飛行機やロケットが飛ぶというのは、これはきっと奇跡に違いない。」という考え方をしながら、僕のロボコン1年目は幕を閉じていった。

 2年目、今度はちゃんと動くものをつくろう。せめて足周り(タイヤとかの駆動系)だけはまともなものをつくろう。と先輩たちと固く誓った我々は、しかし何を血迷ったか、ロボットの向きを変えずにどの方向にも進めるタイヤなんぞにチャレンジしてしまい、結局というかやはりというかこれが上手く行かずに、またもやスタート地点を彷徨う我がマシンの姿を、今度は観客席から(パイロットという名の生け贄はいつも1年生なのだ)眺めていたのであった。「クヤシイ!きーっ!俺の夏を返せ!何故新幹線は走る?何故飛行機は飛ぶ?明日はシステム要素工学のテストだ!」あまりの悔しさにあんまり関係ないことまで考えながらも、しかし僕は急激に、垂直上昇気流的に、3年目のロボコンに賭ける意気込みを高めていったのである。
 余談ではあるが、その後そのマシンは同じように本番で動かなかった(動かなくてもテレビには出れる牧歌的な時代。)湘南工科大学の人が企画した、リベンジ大会(つまり湘南工科大学の文化祭)できちんと動く機会を与えられた。足周りや打ち出し機構に改良を加えたマシンが、湘南のちびっ子や、おっちゃんおばちゃんの前で、スタート地点を勇猛果敢に飛び出し、グガーッと動いてガゴーンとボールをシュートする様を、僕は我が子のお遊戯会を見てはしゃぐバカ親のように眺めていたのである。そして来年のマシンの勇姿は、NHKのテレビカメラのいる前で拝みたいなあと思っていったのであった。

 3年目。4年生でゼミに入る前の生徒に、ものづくりの機会を与えようという教授の方針のもとで、埼玉大学のロボコンチームは活動しているために、3年生のこの年は僕にとって実質最後のロボコンの年だった。本大会(つまりテレビ)に出るためには、まず書類予選というのを何としても通過しなければならない。もちろん過去の大会でも、埼玉大学は厳しい(多分)書類予選を堂々通過してきた。テレビでほとんど動かないマシンを見せられた僕の文系家族や親戚の、「動かないロボットつくるのに、無駄な時間や私たちの貴重な税金を使わないでよ、この国立大学理系。きっ!」という冷ややかな目線およびいやみ攻撃を、「でも、書類予選を通るだけでも大変なんだよね、えへへ。」という力ない返事で切り抜けてきた僕にとって、書類予選は越えねばならぬ最初の関門だったのである。
 毎年そうなのだが、このアイディアを出して一つにまとめるというのは、ものすごく楽しく(この時期、僕の授業のノートはアイディアスケッチで一杯になる)、ものすごく苦労する。いろんな価値観を持った連中が、一つのアイディアに納得するということはこれはもう事実上不可能なことであって、僕の出した、「親子の2台のロボットがカルガモのように連なって自動運転で走る」というアイディアは、はっきり言って「勝てない」しかも「技術難度の高い」ものであった。過去2年間の惨状を知る限り、確実でかつ勝てるロボットをつくりたいという意見が出るのも果たして当然のことであった。議論は白熱し、つばを飛ばし、お茶をこぼし(たかどうかは知らないけど)、結局僕が「つくるのが難しいものをがんばってつくるのが大学生の面白さなんだ。ロボットのことなんて全然分からない子供やおばちゃんが見て、面白いねって言ってくれるマシンをつくろうぜ!(っていうか普通のアイディアじゃ書類予選落っこちちゃうぜ)」とその場ででっち上げた青春論で強引にみんなを説き伏せ、なんとか書類予選を通過したのだった。
 で、今度は当然ながらアイディアを形にしなければならない。例年の失敗の原因は何といっても時間のなさにある。ロボットが形になってからちゃんと動くようになるまでの調整期間は、つくるのの倍かそれ以上必要!と2年かけて学んだ我々は、すぐさまロボットの製作に着手した。足周りは去年の優勝チームの機構を参考にして確実に。カルガモ走行の回路構成は去年仲良くなった他大学のロボットサークル誌を参考にし、ボール打ち出し機構は学内の放置自転車を勝手に使ってと、なんだか全面的に拝借拝借どうもどうもの構造ながら、しかし例年からすれば恐るべきハイペースで夏休み前にはロボットの形状がほぼ完成と相成っていた。で、それにはもう一つ理由があって、NHKは今年から、書類予選の他に事前審査というものを用意していたのである。これはつまり大会の数週間前にロボットの完成度を見にきて、「ちゃんと動かなかったり、書類のアイディア通りにつくってなかったりしたところ(よくある)は、テレビに出してあげませーん」という、我々にとっては非常に恐ろしく、しかしある意味当然な新制度なのであった。かくして我々はせっせとハイペースでロボットをつくり、夏休みには学内の合宿所まで借りたりして、「さあ、来いNHK!こっちだってちゃんと受信料払っているんだ!でもあんまり厳しく審査しないでね。」とおよび腰ながらも必要以上に鼻息を荒くして挑んでいたのである。ところが・・・、毎年ロボコンの会場となっている大阪の堺市は、その夏例のO−157の発祥地となりその脅威にさらされていた。その対応に市はてんてこまいのため、来年の3月までロボコンの開催を延期する、というのである。我々の鼻息は行き場を失い、上がったテンションを冷ます術も分からず、せっかく借りた合宿所は3日間の呑み会会場となり、途方に暮れた僕は2週間の旅に出てしまった。

 結局、事前審査は12月に行われることとなった。しかし、すっかり熱の冷めてしまった我々は、秋の間たいして作業もせずに、目玉となるべきカルガモ式自動制御などは審査の当日になってもほとんどできていない状態であった。NHKの審査員(この人は北浦和に住んでいて、タレントの大木凡土に似ていたので、我々は彼を密かに「北浦和の凡ちゃん」と親しみを込めて呼んでいた)に渋い顔をされながらも、親子ロボットという希少さも手伝って、「じゃあ、2月にもう一回見にくるからね」と最終審査までの猶予期間を貰うことができた。
 それからは本気だった。作業場となっている製図室のドラフター(製図机。100台くらいある)をうんしょうんしょと隅に寄せて、大きなトーナメント表のような白線の自動制御コースを作り、何度も何度もロボットを走らせた。あるときは親機が白線の上をきちんと走らず(西陽の反射が原因だったりした)、あるときは子機が親機に全く付いていかず(電池切れだったりした)、あるときは電気回路の一部が全く動かなくなってしまったりした。僕は回路のことなんかなーんにも知らないの人だったので、もうそうなってしまうと広々とした製図室でひたすらでんぐり返しとかをして、回路基板が直るのを待つしかないのだが、とにかくそんなこんなで2月にはなんとかカルガモ式自動制御の実現に成功したのであった。そして最終審査では北浦和の凡ちゃんに「完璧ですね」とまで言わせしめ、我が「サイタマシン2号TWIN−TECH」(ちなみのこの名前は「ツインテック」→(子機が親機に)「ついてく」と読ませる。理系の人はこの手のダジャレが好きである)は、製作着手から実に9ヶ月目にしてやっと本大会出場の切符を手にし、埼玉大学ロボコンチーム20数名は、3月7日23時58分品川発の大垣夜行にやんややんやと乗り込んでいったのである。

 三度目の大阪。三度目の正直。石の上にも三年。二度あることは三度ある。仏の顔も三度まで。三年目の浮気。様々な想いをよぎらせながら我々は会場である堺市の金岡公園体育館に入った。大会前日。ロボットの調整場になっている小体育館は、全国からやってきた大学生たちが来るべき明日の本番へ向けてロボットの最終調整をしたり、他大学のロボットを時にさりげなく時に大胆にスパイしたりして、一種異様な熱気を帯びていた。一通り他のロボットを見渡した僕は、「大丈夫。アイディアでうちに勝るロボットはないよ。やるだけのことはやったんだ。あとはマシンがちゃんと動けば何らかの賞は貰えるよ」と、妙な自信をみなぎらせてはいたのだが、しかしそんなセリフとは裏腹に、僕はその日とても格好悪いことに、神経性の下痢になって体育館の端っこでうんうんうなっていたのである。チームメイトがロボットの組み立てや最終調整に必死になっている時にリーダーは隅っこで寝ているというとんでもない状況の中で、僕はこの腹痛の原因を考えたのだけれども、それはきっと昨日何か悪いものを食べたからでもなく、明日2000人(推定)の観客の前に立つからでもなく、この腹痛はつまり、「ロボットがちゃんと動くかどうか心配」というところからきているということが分かったのである。で、この「ちゃんと動く」かというのは、我々を3年間苦しめてきた悪魔で、しかも今年は準備が万端なだけになおさら万が一が頭をよぎり、タイヤが外れるぞー、電池がショートするぞー、センサーが壊れるぞー、と僕のおなかをちくちくとつついて、僕をトイレに走らせるのであった。やれやれ。

 本番当日。正露丸の力を借りておなかの調子をなんとか取り戻した僕は、「まあ、あれこれ考えても仕方がない。あとはみんなとマシンと自分を信じて頑張るだけなのだ。やるぞ。おーっ!」と、かなり開き直って前向きな気持ちになり、NHKの用意したお揃いのクリーム色のトレーナーを着て、頭には三上の提案で白い鉢巻きを締め、腰には一昨年の大会で着た、怨念のこもったTシャツを巻き付けてという、イベントだから許されるような、かなり「イッちゃってる」格好で運命の本番へと臨んでいったのであった。
 埼玉大学の出番は16番目であった。僕と三上と、1年生でパイロット(今年は生け贄ではないはずだ)のSの代表3人は、ピットでマシンの見張りをしたり、他大学の競技を眺めたりしながら、割とリラックスした雰囲気で自分達の出番を待っていた。そしてついに我々の出番になり、マシンを(運命の)スタート地点へと運び入れ、1分間のセッティングを終えてから、3人は手を重ねあわせて、「頑張ろうぜ」と昔のスポ根ドラマのようなことをしながら勝負の瞬間を待ち構えていた。
 「続いては、埼玉から埼玉大学の登場です。」司会のタージンがそう言うと、応援団席からひときわ大きな声援が上がった。そして、みんなの期待と不安が高まる中、スタートの合図とともにパイロットは親機の駆動ペダルを踏み込んだ。「・・・あれっ?」マシンは全く動き出さなかった。何とモータを駆動させるバッテリーの配線が繋がっていなかったのである(ちなみに配線担当は僕だった。舞い上がっていた)。幸いパイロットが直ぐこれに気付き、手を伸ばして配線を繋ぎ、マシンは無事に動き始めた。この間約5秒ほどだと思うのだが、三上はこの一瞬に過去2年の悪夢が走馬灯のように頭をよぎったそうである。で、あとから考えてぞっとしたのだけれども、3つあるバッテリーのうち、パイロットの手が届く位置にあるのはこの駆動バッテリーだけだったのだ。つまり、もし他のバッテリーが配線されていなかったら、埼玉大学は3年連続スタート地点で立ち往生という、世にも恐ろしい事態になっていたのである。いやあ、僕って運がいいなあ。
 そしてマシンはついに自動制御ゾーンに入った。応援団の激しい声援と、観客の熱いまなざしと、パイロットの手招きと、そして僕や三上の3年間の執念を込めた「ちゃんと動けよ!」というドキドキの懇願気分を知ってか知らずか、親機はきちんと白線をたどり、子機はよろよろとそのあとを付いてくる。タージンが何やら一生懸命解説をしてくれているが、僕にはそんなの聞こえちゃいない。そして、そういう様々な想いを乗せて、ついにマシンは自動制御ゾーンを駆け抜けた。今回の最大の売りである「カルガモ式親子機2台同時自動制御」は見事に成功し、堺市の2000人(推定)のちびっ子、おっちゃん、おばちゃんからは惜しみない拍手が送られたのであった。

 結局埼玉大学の得点は30点だった。上位のチームでは200点とか400点とか取っていたので、そういう意味では我々は落ちこぼれであった。しかし我々は十分に満足していた。「高得点ではなく、動きそのもので観客を魅了すること」が我々のコンセプトであったし、それはロボコンに新しい指針を与えたと自負している。そしてそれは、冒頭に述べた通り「アイディア賞受賞」という最高の形で見事に報われたのである。その後片づけが進み、すっかり宴のあとといった雰囲気になってしまった会場で、僕と三上は北浦和の凡ちゃんと少しだけ話すことができた。凡ちゃんは僕達2人に、「いやー、君たちのロボットは審査員の先生方にもものすごく評判が良かったよ。アイディア対決なんだから、ああいうロボットを他の大学もつくらなきゃ駄目だよな。」というようなことを言った。我々の今年のロボコンは間違いなく「勝利」だったのである。

 その後、打ち上げやらなんやらでどんちゃん騒ぎをして、翌日は大阪見物をして、大垣夜行で帰ってきて、結局僕が「ふうーっ」と一息つけたのは大会から2日経った朝の、自宅のベッドの中だった。そして大会のことや、そこに至る3年間を振り返り、「いやー、アイディア賞だよ。すごいよなー。でも(当たり前だけど)俺一人じゃ絶対に無理だったな。みんなほんとによくがんばったよな。良かった。良かった。」と思っていたら、なんだかとても恥ずかし格好悪いことにちょっと目がうるうるしてきてしまい、「うん、でもまあ俺もよくがんばったよな。こういうときは多分泣いてもいいんだよな。」と自分にいいきかせ、男は一人密かに枕をポツンと濡らしたのであった。

 今、僕は4年生になり、卒業に向けて研究中(?)である。三上は急に一年間の休学届けを出し、秋田県へボランティア活動に行ってしまった。製図室もドラフターが整然と並び普段の様子をすっかり取り戻し、この部屋でロボットづくりに汗を流した日々は夢だったのではなかろうかと、僕に時々思わせる。しかし、心の底から僕を奮わせたあの感動は、今も確実に僕の中に存在している。そして製図室で新たに動き始めた次代のロボコンメンバーにも、そういう感動を味わう経験をして欲しいなと、僕は切に願って止まないのである。

おわり


4-2-3-1